ガザ:「子どもを養うことも、守ることも、そしてその死を悼むことすらできない母親の苦痛は、どんな爆弾よりも大きなダメージをもたらします」

世界の医療団 ガザの心理士ヌールの日記 その3


世界の医療団の心理士ヌール・Z・ジャラダはガザで生まれガザで育ちました。フランスの新聞『リベラシオン(Libération)』でガザの日常について語っています。
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天が裂けて私たちの人生が、それを「以前」と「以後」に分断けられてから2年が経過しました。絶え間ない恐怖、血の川、そして愛する者を失った容赦ない悲しみの2年。崩れ落ちた家々、散乱した遺体、死者や行方不明者の2年。街全体が灰燼に帰した2年。強制移住、絶え間ない避難、そしてかつて私たちのものだった祖国を失った2年。避難命令と、名ばかりの「安全地帯」の2年。ドローンと戦闘機の轟音が頭上を飛び交い、終わりのない爆撃が続く中、地面で震えながら眠った2年。

胃をむしばむ絶え間ない空腹、恐怖と空腹でうつろな子どもたちの目。断水と停電の2年、病院は破壊され、意図的に標的となり、道路は破壊されて通れず、市場は閑散とし、学校は閉鎖、子どもたちの遊び場は跡形もなく消え去りました。廃墟の中で、ただ生き延びることだけになった人生。魂を突き刺すようなニュースを追いかけ、怯えた子どもたちが、もはや存在しない生活に憧れるのを見てきた2年。世界が崩壊していくなかで、自分がまだ生き延び、子どもたちを抱きしめることができるなんて想像もしていませんでした。私はあまりに多くのものを失い、私の人々と私の街が苦しんでいるのを見るたびに、胸が張り裂けそうです。

私たちの街、ガザは幾度となく破壊され、その度に私たちの心も一緒に引き裂かれてきました。私は胸を震わせながらニュースを見守り、息子は涙を浮かべて私を見つめながら言います。「もう二度と戻れないみたい。ガザの街を二度と見れないかもしれない」。そして私は自問します。「なぜこんな運命なの? なぜ子どもたちは、子ども時代がどんなものであるか知る前に、恐怖、飢餓、そして死を経験しなければならないの? なぜ私たちは何千人もの子どもたちを失ったの? 病院はすべての犠牲者を記録することすらできず、死者の数は現実のほんの一部にすぎないというのに……」


母親たちの苦しみ


想像もできなかった状況に直面しました。子どもたちを連れてあちこち逃げ回り、血やバラバラになった遺体を見せないように子どもたちの目を手で覆い、自分自身が耐える術を知らないまま、子どもたちに忍耐と回復力を教えました。愛する人を失い、学校が破壊され、遊び場が消えた状況にどう対処すればいいのでしょうか、子どもたちにどう教えればいいのでしょうか? 私自身のこころが砕けているのに、どう慰めればいいのでしょうか? 毎朝、仕事に出かける前に子どもたちを抱きしめます。もう二度と会えないかもしれないという恐怖に怯えながら。私たちからすべてを奪おうとしているように見えるこの世界で、お互いを気遣い、安全を祈るよう子どもたちに伝えます。

しかし、私の苦しみは特別なものではありません。ガザのすべての場所で、母親たちは言葉に尽くせないほどの恐怖に耐えています。夫、子ども、そして家を失っています。飢えに苦しみ、しばしば自らを犠牲にして、配給されたわずかな食料を最も弱い子どもたちが生きられるように与えています。何年も待ち、苦労の末にようやく出産にこぎつけた女性もいますが、残酷な空爆によって子どもたちが殺されるのを目の当たりにするのです。妊婦は想像を絶するリスクに直面し、病院の外で、薬も麻酔もなく出産します。十分な鎮痛剤もないまま帝王切開を受ける女性も多くいます。流産率は深刻なレベルに達し、この戦争で300%を超えています。

母親たちは、亡くなった我が子を悼むための最も大切な葬儀の機会を奪われました。日々の生活は、常に危険がつきまとう中で、いかにして子どもたちのもろい命を守るか、という算段の連続となりました。母親たちは、長年誕生を待ち望んできた我が子を失うという計り知れない苦しみに、どう耐えればよいのでしょうか。ガザ地区の住民の大半は、避難所、学校、病院、あるいは親戚のもとに身を寄せ、強制的に避難を強いられています。食料も医薬品も電気もない過密なテントの中で、妊婦が出産する話も耳にします。毎日、弱々しい赤ちゃんが生まれ、その多くはあまりにも弱く生き延びることができません。


終わりのない恐怖の連鎖に閉じ込められて


ガザでは毎日約130人の赤ちゃんが生まれ、そのほとんどが過密なテントやシェルターで生まれています。母親たちが飢餓、疲労、そして精神的トラウマによって衰弱しているという事実を知ると、胸が痛みます。これらの赤ちゃんは虚弱で、本来あるべき姿よりもはるかに弱々しく、長期的な健康問題を抱える可能性が高くなっています。保育器が故障したり、医療支援が受けられなかったり、数少ない医療従事者が想像を絶する状況下で奇跡を起こすことを強いられています。

母親たちが母乳を与えることができず、まるで自分の体温だけで子どもの命をつないでいるかのように、子どもを胸に抱きしめているのを目にしました。ある母親は、「何日も何も食べていないから、赤ちゃんは母乳を欲しがって泣いているのにあげられない」と話しました。こうした出来事はすべて、ドローンや戦闘機の轟音の下で繰り広げられ、命のはかなさを常に思い起こさせます。子どもに食事を与えることも、守ることも、そしてただ悲しむことさえできない母親の苦しみは、どんな爆弾がもたらす苦しみよりも大きなものです。

ガザでは、戦争は単に命を奪うだけでなく、ゆっくりと消耗させ、母親と子どもたちを恐怖と飢餓、絶望の無限のサイクルに閉じ込めています。病院は廃墟と化し、医療機器は失われ、医師たちはほぼ暗闇の中で手術をせざるを得ず、時には命を救うためだけに不可能な選択を迫られます。妊産婦と乳児の死亡は単なる統計上のものではなく、生きた現実です。生まれたばかりの赤ちゃんが呼吸困難に陥るのを見守る母親、親なら誰も直面すべきではない状況で亡くなった子ども。


母性、回復力、そして抵抗


しかし、この恐怖の渦中にあっても、母と子の絆は揺るぎなく、力強く続いています。母親たちは、まるで未来を抱きしめるかのように子どもたちを抱きしめ、物語や祈り、優しい言葉をささやき、震える心を慰めます。毛布が足りない時には温もりを、世界が何も与えてくれない時には保護を、そして絶望に本能が叫びを上げる時には勇気を与えます。飢餓、疲労、恐怖は日々の生活から切り離せないものとなりましたが、それでも母親たちは耐え抜き、子どもたちを世話することで力を振り絞り、安全を失った世界で立ち直る力を教えています。ここでは、母親のトラウマはもはや理論ではありません。震える手、涙でうるんだ視線、そして命をつなぐ静かな愛の仕草の一つひとつに、それは目に見える形で現れています。

子どもたちは、空腹で、打ちひしがれた表情で、たった1個の栄養補助食品を手に入れるために診療所にやってきます。母親たちは、罪悪感と、子どもたちを絶望から守れない悲しみの間で引き裂かれ、無力感にさいなまれながら子どもたちを見つめています。過密状態の避難所や仮設テントの中で、女性たちは手に入る毛布で子どもたちをくるみ、子守唄を歌って恐怖を紛らわせ、弱々しい身体に温もりと希望を注ぎ込みます。子どもに食事を与え、涙を拭い、震える手を握る、これらの小さな行為の一つひとつが、戦争の容赦ない重圧との戦いとなっているのです。

2年間の戦争を経て、ガザにおける母性は、確かな回復力の証だと私は考えるようになりました。共に分かち合う食事、ぬぐい去る涙、守る鼓動の一つひとつが、抵抗の行為なのです。希望が失われても、母親たちは息づかいひとつひとつを大切にしながら、命を守り続けています。ささやくように歌う子守唄、握った手、見つけた食料、捧げる祈り。それらはすべて、私たちの武器です。小さくても、それらを破壊しようとしているように見える世界において、なくてはならない武器なのです。

そして今、容赦ない戦争の二年目が過ぎようとするにつれ、エジプトの詩人アマル・ドゥンクルの言葉が私のこころに浮かび、ガザの隅々、すべての母親のやさしい抱擁の中、震えながら温もりにすがりつく子どもたちそれぞれの中に響き渡っています。その言葉は、私たちを取り巻く残酷さの中に平和を見出すことはできない、家の破壊、愛する人の喪失、子どもたちの静かな苦しみを受け入れることはできない、ということを思い出させます。街に夜が訪れる今、私は再び問いかけます。私たちの子どもたちは、ドローンのない空を見ることができるのでしょうか? 彼らは怖がることなく街を走り回ることができるのでしょうか? 私たち母親は、二年間の終わりのない恐怖を生き延びた後、安らぎのひとときを見つけることができるのでしょうか? あるのはただ疑問だけで、答えはありません。



10月9日掲載 Libération

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「私は治療する。私は崩れる。私は支える。私は壊れる」はこちら>>
「パンくずを喜ばなければならないことの残酷さが理解できますか?」>>

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