東日本大震災:現地医療活動レポート13

8月のお盆を過ぎ、避難所で生活をしていた人々は、仮設住宅やその他の場所へ移り、大槌町の避難所はすべて閉鎖された。

東日本大震災:現地医療活動レポート13
震災以来人々の生活の基盤となっていた避難所が今はないというのは、避難所を主に訪問していた私にとって、正直不思議な感覚である。しかし、被災された方々にとっては、避難所は「日常」なのではなく、「非日常」だったのである。今は、「非日常」から「日常」へ歩み始めたところなのだ、と気づかされた。避難所からもとの自宅へ帰り、「日常」を取り戻せた人は、どのくらいいるのだろうか。明確な数字ではわからないが、そう多くはないはずだ。
お盆明けのある雨の日、私たちは少し向こうに海を望む仮設住宅団地に足を運んだ。そこで出会った年配の女性が「私は1人だから」と自宅に上げてくださった。
1人になったのは最近のこと。3月11日である。
「戦争もチリ地震の津波も経験したのになんでこんな目にまた遭わなければならないのかしらねえ。いいことをしてもいいことをしても罰はくるんだねえ。」
津波の警報がこの女性の近所では聞えなかった。避難した方がいいのかさえわからない状況の中、とりあえず妻を先に避難させた夫にその後生きて会うことはできなかった。
「息子はいい人に育ってくれた。でもあんまりいい人でもだめなんだよ・・。少しくらい悪い方がいいんだよ・・。」
消防団員だった息子は、人々を助けに行き、帰らぬ人となった。
「生まれも育ちもここだからね。(仮設も)どうしてもここがよかった。」と住んでいた地を望む、山の中腹にあるこの団地近くには、店も病院もない。
震災以来張り続けた緊張は、仮設住宅に移った翌々日に切れ、めまいで起き上がれなくなった。病院へは、1時間半に1本というバスに乗ることもままならず、「わずかな貯金」を使って毎日タクシーに乗るしかなかった。
震災から4ヶ月以上が経つが、初めて会った私たちの前で涙がとまらない。
この女性の「日常」は3月11日で止まったままである。
「ただいまー。」とドアが開き、隣に住む小学生の孫が、学校から帰ってきた。初めて女性に笑顔が浮かんだ。娘と孫は、震災後、数日してから再会できたのだった。
避難所を出て、新たな場所で始まった生活が、「日常」への前進であるよう、孤独ではなく「つながり」の場であるよう願いつつ、引き続き一緒にあろうと思う。

看護師 関本ふみえ

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