東日本大震災:福島そうそう現地医療活動レポート12

今回は、南相馬市で、こころのケアを担当している横内弥生臨床心理士の活動レポートをお届けいたします。
レポートは2回に分け、今回はその第1回レポートをお届けいたします。

東日本大震災:福島そうそう現地医療活動レポート12
写真(上から)

1. 帰還に向けて南相馬小高区 新しい公会堂(2015年5月)

東日本大震災:福島そうそう現地医療活動レポート12
2. 除染土仮置き場(南相馬市大富地区)

東日本大震災:福島そうそう現地医療活動レポート12
3. 浪江町請戸漁港工事中(2015年3月)

東日本大震災:福島そうそう現地医療活動レポート12
4. あの日のままの浪江町 泉田川漁協孵化場跡2015年3月


南相馬市 復興のはさみ状格差のなかで・・

南相馬市は東日本大震災の被害が複合的に現れている場所であり、復興の様子も場所によって違います。また、高齢化による一人暮らしの問題や、障がいのある方の暮らしにくさの問題、アルコール依存、家族の分断など、以前からある問題が震災から時間が経つにつれてより大きく重くなっている現状もあります。津波被災や喪失を超えて、新しい生活に希望を乗せて歩み始められている方々もいらっしゃれば、一方で、出口の見えない重さを抱えて相変わらず苦しんでいられる方々、悩み苦しみがより重くなっていられる方々と、生活の様子にも開きが見えます。これは復興のはさみ状格差と言われています。

そういった中で、私が感じているのは、公的機関や公的サービスを担う方々、また世界の医療団の現地カウンターパートナーなごみ(*)スタッフのご負担の重さです。多くの方は、ご自身や家族が被災者でもあり、一時避難を体験されています。5年目に入ってもまだまだ多くの支援が必要な現状です。住民の方も頼りは市役所であり、保健センターでありますから、心配事相談も見守り要請も多く、皆さん長時間勤務をなさっていられるようです。震災から長期間休みがなく緊張の続くお仕事を、何時も笑顔でなさっていらっしゃる姿に接して深い敬意を抱くと同時に、「倒れないでね」とこころから祈っています。

なごみ南相馬事務所に協働や見守りを要請される活動も途切れることなく多くあります。住民の方が個人で相談に見えられることもあり、また浪江町や双葉町、南相馬市保健センター等から要請されることも多くあります。支援者支援はもっともっと必要ですと訴えたいです。世界の医療団のこころのケア活動はまだまだ必要と思います。

南相馬市の海岸部は津波の被災により居住が難しくなりましたが、復興住宅や集団移転で建設した新居に移り住み、新しい生活を営み始めていらっしゃる方もいます。鹿島区の遺族の方への見守り活動は次第に収束している傾向です。一方、福島第一原発から20キロ圏内に該当する小高区はまだ、夜間の居住はできません。被災した住宅の取り壊しや修復が終わっていなかったり、家族がどこにどのような形態で住むか決まっていなかったりという現状もあります。

今も仮設住宅に住んでいらっしゃる方の多くは、平成28年に予定されている避難指示解除に向けて、帰還の準備をされているようです。コンビニや病院などが昼間は開設されています。新しい公会堂が建ち、そこでのサロン活動をなごみも支援しています。医療補助や賠償金などの方向が良く分からないで、経済的な見通しが立ちにくいことで心理的な負担になっていらっしゃるというお話を聞くこともあります。

南相馬市全体の除染活動はゆっくり進んでいるようですが、20キロ圏内だけでなく部分的に放射能の空間線量や土地表面の線量が高い地域はあちらこちらに残っています。お母さんがたはやはり、子どもの食べ物や遊び場については今もなお心配は消えないとおっしゃっています。山野草や木の実を採って食べる楽しみも味わえないでいます。

また、第一原発のある双葉町から避難されている方、すぐ隣の浪江町から避難されている方も住まわれています。家族は若い方は都市部(福島市やいわき市、二本松市、他都県など)に多く移住されていられるようです。南相馬市の仮設住宅や借り上げ住宅に残っていらっしゃる方は高齢の方が多く、子どもや孫と離れて暮らす寂しさが覗えます。浪江町の避難指示解除を待つ地区はようやく津波被災の瓦礫の整理や請戸港の整備などが始まったようです。でも、同じ町でも、居住制限区域もあれば、高線量でいまだに立ち入るのに防護服が必要な帰還困難区域もあります。

(*)相馬広域こころのケアセンターなごみ

*この活動のための資金の多くを、ジャパン・プラットホーム様「共に生きる」ファンドよりご提供いただいております。

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