世界の医療団を知ろう!歴代事務局長リレーインタビュー

~ 世界の医療団 日本は 発足から四半世紀を迎えました ~

私たちの経験から何を学び、何を進化させてきたのかを振り返り、多くの方に共有する機会にしたく、歴代事務所運営に関わった人達にお話しいただきました。(世界の医療団 日本 現事務局長 米良 彰子)

阪神淡路大震災での唐突な始まりから、NPO法人設立へ


荒井康子氏
荒井 康子 氏
(在任1995年1月〜2005年4月)


「世界の医療団 日本」での活動は、宝物のような思い出です。


神戸
神戸での活動風景©MdM Japan
阪神大震災が起きた1995年当時、私はガエル・オスタン理事長の会社の社員でした。今ほどインターネットやSNSで簡単に情報が得られる状況ではなく、被災地の様子もよく分からない上に、オスタン理事長も私も人道支援は未経験という中、フランスから医療チームが派遣されてきました。開発途上国での緊急支援には豊富な経験を有する医療チームも、先進国の都市部で活動を行うにはハードルが山ほどありました。彼らは長田区役所を中心に数週間、岡山の医療NGOであるAMDA(現・特定非営利活動法人AMDA)と行動を共にしましたが、日本の医師免許を持っていないことから、最後まで医療行為は認められませんでした。それでも、被災した人々の状況を間近で見て、人々と接する中で知り得た情報を元に、チームの一員だった保健衛生の専門家が提言を盛り込んだ報告書をまとめ、役立てて欲しいとAMDAに提供しました。



ご支援者の皆さまへメッセージ


「ボランティア元年」とも言われたこの年、「神戸を助けたい」「何もしないわけにはいかない」との思いを持つ大勢の人々が全国から神戸に集まってきていました。神戸で急に始まった私たちの活動も、その後も続けていくことになりました。私はしばらくの間はそれまで通り、会社員として働くかたわら、世界の医療団日本事務所の立ち上げや、1998年に施行されたNPO法(特定非営利活動促進法)に基づいてNPO法人を設立する手続きなどを行いました。世界の医療団 日本が、2000年にNPO法人として登録できたのは、大勢の皆様がそれぞれの専門分野で助けてくださり、お力添えくださったからに他なりません。


団体としての基礎固め ――
ご支援者の皆さまを日本で募る


プリュン・エフテル氏
プリュン・エフテル氏
(在任2005年9月〜2012年3月)


私の大きな使命としては、メドゥサン・デュ・モンド(MdM)フランスからの拠出資金だけでは足りない活動資金を確保するために、日本で資金調達を行うことでした。多くの寄付者の方に参加していただき、一方で支出を減らし、スタッフも雇ってプロジェクトを行うという基礎固めの仕事です。寄付は、個人の方と企業様にもお願いしました。その過程で、ACジャパンの広告にも採用されました。

事務局長の私のほかにスタッフが3〜9人いて、最も少ない時で私を入れて2人しかいない時もありました。あの時はまだ、理事長が経営する会社の一角を間借りしている状態でした。

在任中の出来事で記憶に残っているのはやはり、東京プロジェクト(現・ハウジングファースト東京プロジェクト)ですね。私の時に始め、後任の畔柳の時に発展させたプロジェクトです。世界の医療団 日本として初の国内プロジェクトで革新的だったと思います。

それから、コンゴ民主共和国で起きていることを知ってもらうための広報活動も記憶に残っています。私たちが使う携帯電話に欠かせないコルタン採掘の現場は、コンゴ民主共和国では児童労働や紛争の温床になっていて、それを機に鉱物を安く手に入れようという動きがありました。したがって、日本にも住んでいる私たちにも、責任があるということを知らせたいと思いました。特設ウェブサイトを開設したり絵はがきを作成したりしたほか、高校など学校にも出向いて広報活動を行いました。



ボランティア医師の誘拐事件に遭遇 団体を信用して参加くれたことへの責任


2008年に、日本から派遣したボランティアの医師がエチオピアで誘拐される事件が起きました。数か月後に無事解放されましたが、この時はずっと大きな責任を感じていました。私が採用したボランティア医師でしたので、直接の責任を感じました。毎日、医師の家族と外務省と連絡を取り合いました。朝も昼も夜も、週末も関係なく。解放されるまでの3か月位の間、ずっと続きました。

日本では、ボランティアは大人として自分の責任で人道支援をやっているのだという、ある意味では言い訳のような解釈をする人もいましたが、私は被害にあったことが自己責任だとは思いません。医療を必要としている人のために働くという使命感があって、団体を信頼して参加してくれているのですから。あの時は、心が揺れていました。



ご支援者の皆さまへメッセージ


os
スマイル作戦©Kazuo Koishi
スマイルクラブ(継続寄付のプログラム)を開始したのも、私の頃でした。スマイルクラブの方たちがいなければ、今の世界の医療団 日本はありません。支援について熱心な方、私たちのことを信頼して下さる方たちがいることで、私たちが重要視する長期的なプロジェクトができるのです。とてもありがたいことです。

私はフランスに戻ってから、フランスのMdMの寄付者として今も参加しています。世界の医療団は素晴らしい団体です。他にない活動、最も忘れられている人たちに対する支援を、心から信じて一生懸命に行っている素晴らしい人たちです。

世界の医療団 日本で7年間働くことができて、とても感謝しています。たくさん学ぶ機会を与えられ、自分自身がプロとして大人として、成長することもできたと思っています。日本の方のおかげで、私の半分は日本人になったのです。今でも日本語を話していると、私の忘れていた一部分が現れてくるようです。

フランスに帰国してからは高等教育機関に戻って勉強をし直し、今は判事をしています。勉強することが、日本での私の経験を上回っていくために必要だったからです。日本での経験よりも、高く夢を持って進んでいくために。



プロジェクトでの活動を積み重ね、「証言」へ


畔柳 奈緒 氏
畔柳 奈緒 氏
(在任2012年3月〜2020年3月)


MdM日本に入職したのは2006年で、前事務局長のもとで採用された時はスタッフは私を含め4人でした。世界のMdMネットワークの一員として「取り残された人たちと共にある」という存在であるために、前任の事務局長の時に始めた東京プロジェクト(TP、現在のHFTP)、国外での短期・反復型の手術ミッション「スマイル作戦」を継続させると共に、MdM日本として初めての国外プロジェクトであるラオスにおける小児医療プロジェクトを2012年に始めました。

そして、プロジェクトを動かしていくことはもちろん大事だけれど、世の中を良くするためには同時に、証言活動をしていく必要があります。8年の間にさまざまな変化を経験し、実感としては、証言活動を行えるところまで来たのだなと感じています。

なぜなら証言は、自分たちが活動してこそ初めてできることだからです。前任者の時に始まった東京プロジェクト(TP、現在のハウジングファースト東京プロジェクト=HFTP)では、根幹にあるハウジングファースト(HF、安心できる住まいをまず得ること。住まいは権利であるという考え)を広めていくために、活動から得た知見をもとに証言活動を行ってきました。



「アクティビストの組織」であること ―東京プロジェクト


MdMの世界のネットワークで共有する考えとして、「我々はアクティビストの組織である」という考え方があります。つまり、社会を変えていく役割を担っているということです。医療支援を行う団体である前に、実現していきたいビジョンがあるのです。そのビジョンの下、医療支援を行っているということです。

厚生労働省が「生活保護の申請は国民の権利です」と昨年の暮れに発信して、驚きました。権利を主張する、擁護することは私たちの活動の根幹でもあるのですが、こうした発信を、同じようなアクティビストの団体以外で、しかも行政から投げかけられていることを見たことがなかったからです。少し前までは、生活保護を必要とするホームレス状態にある方々に対しては、日本では自己責任論が席巻していましたし。それだけ世の中が厳しくなり、新型コロナウイルスの流行で生活が困窮した人も増えていることを社会が感じるようになってきているのだと思います。

TPを始めようとしていた頃は、理事会でも一部反対があったほどです。でも、医療だけでなく、住まい、生活、つながり地域で共に生きるといったMdMがフランスで行っていたホームレス状態の方々への事業のフィロソフィーと出合ったこと、そして森川すいめい医師と出会ったことで日本でも進む方向性が見えました。そして、今でも協働しているTENOHASIやべてぶくろ、池袋の仲間たちと出会うことができました。きちんとしたパートナーを見つけることの大切さを知りました。

また、当時はSNSによる発信が台頭し始めた時期と重なり、こうした問題に感度が良い人たちが情報を共有してくれました。日本全体の経済状態が落ち込み、身近に貧困があることを感じ取っている人がいて、ニッチなところでつながれるツールがSNSだったということです。

コロナ禍の影響で特に、生活困窮者については社会から認知されるようになりました。メディアの取材もたくさん受け、社会の辺縁に追いやられる人たちに対する関心が高まっていると思いました。潮目が変わっている感じがします。


HFTP
ハウジングファースト東京プロジェクト©Kazuo Koishi


国内災害発生時の支援活動 「3・11」を契機に方針転換


東日本大震災からこれまで、国内の自然災害においても緊急支援を行ってきました。近年では台風の被害を受けた福島県いわき市や地震のあった熊本県など。さまざまな実績を積んできて、組織として信頼いただける程度には成長してきたのではと思います。

前任の事務局長の在任中の話となりますが、東日本大震災の発生前年(2010年)に災害時の行動計画を作っていました。内容は、日本国内での大規模災害発生時は、私たちのオフィスやTPなど活動拠点のある「東京であった場合には活動する」と決めました。逆に言えば、自分たちの地の利のないところでの活動は考えていませんでした。

策定するにあたってさまざまな状況を調べた結果、当時の私たちのオペレーション能力では対応できないと結論づけたからでした。

こころのケア事業
福島そうそうプロジェクト©Kazuo Koishi
しかし、2011年3月11日の災害に直面して、「国内の災害に対応しないなんて言っている場合じゃない」と、それこそ組織を上げて奮い立ちました。協力者を募り、物品をかき集め、活動の基盤を作って現地に向かいました。当初は岩手県大槌町でこころのケア事業を行いました。多くの人々が避難所に身を寄せている時期から、仮設住宅へ移り、復興支援住宅やご自宅へと戻る比較的長い期間、現地に関わらせて頂きました。

どうしてこころのケアだったのかというと、TPで活躍していた精神科医、臨床心理士、看護師を中心に事業を組んだからです。また、震災の翌年から2020年まで、福島県相馬市、南相馬市を中心にやはりこころのケア事業を行いました。

このようにバタバタと始まった国内での災害時の活動ですが、今では国内で大きな自然災害が起きると「現地に行かないの?」と訊かれるようになりました。MdMは災害で動くんだ、と認識されたのだなと思います。また、市民社会にもこうした活動に参加する意識が以前より高まっていて、私たちと、それから他の多くの団体も頑張ってきたからだと思っています。

しかし、国内の大規模災害でも支援に行かないと決断したこともあります。人も含めたリソースで、どう考えてもこの段階で事業展開するのは不可能だと判断した場合です。私たちは商品やサービスを売っている訳ではないので、災害によって、出会う人たちによって、支援の形が違うということもあります。

MdMとして最後まで責任を持った支援を行う上では、緊急時だけで撤収するのではなく次の災害に向けたレジリエンスを高めていくまで続けるという考え方に立っていますが、そのことが以前より難しくなっているとも感じています。一方で、これからも世界的に支援が必要なケースは減ることはないのではないかと考えています。ある意味では、支援に行けないことがプレッシャーになっています。NGOの社会的責任が増しているのだなとも感じました。



ご支援者の皆さまへメッセージ


ご支援者の皆さまには、いつも私たちと共にあって頂き、ありがとうございますとお伝えしたいです。世界が今後、どのような形になるのかわからないのですが、MdMは日本にあるNGOとして、日本でも活動すると共に、世界で何が起こっているかを伝えていけるようなMdMネットワークの一員であり続けると思います。

いまは学生に戻り、看護大学で学んでいます。大学で、「シェアド・リーダーシップ」(リーダーシップを共有する)という理論を学びました。1人のリーダーがぐいぐい引っ張るのではなく、必要に応じて各人がリーダーシップを取るという考え方です。このことを学んだ時に、スマイル作戦で参加者が当たり前にやっていることだと感じました。

スマイル作戦では、執刀する形成外科医だけが全てを決めるわけでなく、麻酔科医の意見は最大限尊重され、看護師の忠告もしっかり聞く。私は、コーディネーターとしてスケジュールを予定通りこなすための立場から意見を言っていました。ここではそれぞれが能力やパワー(権力)も差し出すことで、1人でも多くの人に医療を届けるというミッションを遂行できるのだと思います。


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2018年のスマイル作戦/写真中央:畔柳 奈緒 氏/©Kazuo Koishi

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